孵化する「光の宇宙卵」を待つ
2004年 07月 10日

未知、未見の世界を体感することは、時に快楽であり、愉悦であったとしても。ひるがえって思えば、おぞましく、恐怖の淵に立たされた感もある。知らずもがなのことを知り、見ずもがなのものを見る。これが時代性であり、恐いもの見たさが人間の本性としてあって、盲いたる眼を開かせるのが、時代の尖兵である。芸術家の因果であろう。
光の魔術師、ヤマザキ・ミノリが見せる未知、未見の世界を体験する時がそうである。
この時、観照者もまた作者体験をする。ヤマザキは、自分自身の仕事について、その一切全てを気づいてはいないのかもしれぬ。しかし、その作品を見て、その世界に捕えられるどんな観照者よりも、ヤマザキは、自分の作品と光とのかかわりを知っている。ヤマザキの作品が、音もなく作者を超えてしまうことを、ヤマザキは知っているのだ。だから彼は、自分の作品を、時代に生きている必然の所産たと、こともなげに言う。その作品を、大いに楽しんでほしいと言ったりする。まるで人ごとのように、素直に、そう言い放つ。
ヤマザキ作品の世界は、全ての芸術作品が多かれ少なかれそうであると同じく、観照者自身の官能力によって、千変万化だ。感性の強弱、大小、時に魂の能力を間われることになる。急性が自由になれる。
ヤマザキはそう言うが、そんなものではあるまい。見世物小屋のインチキなカラクリではない。観照することによって見者に感性は産まれるのであって、やがて、見者はその感性に捕らわれるのだ。未知、未見を識ることにおいて、作者ヤマザキも、観照者も同じ捕らわれ人になる。多くの芸術作品にあって、作者の意図した結果が思い通りに成らぬ恨みはあっても、まるで意表をつかれ、作者自身がたじろぐことなと、そう多くありはしない。
ヤマザキの作品にあっては、作者以外の発見を見出す観照者の存在の可能性が大きい。作品の時代性について彼の言う意味は、このことにあるのではないか。作者が、作品を産みだす。それだけではない。
時代が産む物を、作者の半分は観照者の立場にあって、手助けしていく。ヤマザキなくしては、存在し得ない、まこうことなきヤマザキの作品を、時代と共に作る。ヤマザキが、平然と、「光」を操っていられるのは、こうして、時代の産物を見つづけることによって、傲慢な作者気取りから解放されているからだ。
夜空に消える花火や、取り壊されるイルミネーションではない。ヤマザキの「キューモス」の中には、閉じこめられた「光」の実在がある。彼がそれを、箱の外に取り出そうとすればするほど、「光」は内部体験の世界に連れ出す。「光の宇宙卵」から何が産れるのか。恐れと、期待の解放の瞬間を見ることが出来るのか。ヤマザキの準備の絵図面から、想像する不遜だけは、今、観照者に許されていない。
割目して待つだけだ。
-1989 Junichi Arai (textile planner)
■作品サイト 1 ヤマザキミノリのインターネット美術館-1 空間デザイン、環境造形、展示設計"Christmas Decoration, Display Design, Public Art, Installation, Art works"
■作品サイト 2 ヤマザキミノリのインターネット美術館-2 ライトアート、立方体万華鏡、オブジェ、インスタレーション"cumos, Light art, CG, Installation"
by ardest
| 2004-07-10 10:51
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